三流作家の言葉の重み

石原慎太郎差別語使用の常習犯だ。「支那」「三国人」「北鮮」「毛唐」などである。

国人発言のときの、震災時に外国人が騒乱を起こす可能性の根拠にしたサンフランシスコ地震の例は石原氏のまったくの勘違いであったし、外国人犯罪率が増加しているというのも事実に反する発言であった。彼の発言には、ろくに知りもせず調べもしないで思いこみと偏見でものを言うという特徴がある。それ故、批判に答えるときも強気の姿勢こそ崩さないが発言は一貫しないことも多く、内容にも貧しい。「三国人」に対する弁明も一定しないし、「南京大虐殺」に対する見解もくるくる変わる(石原慎太郎の感覚を参照)。

もそもなぜわざわざ「支那」「三国人」「北鮮」「毛唐」という言葉を使うのかの説明がない。普通に言えない理由があるのだろうか。石原慎太郎の発言を振り返ると、彼がこれらの言葉を使うときは否定的な文脈の中で使っていることが分かる。中国、北朝鮮、ロシアという彼が普段から批判を繰り返している彼の個人的に嫌いな国々に対してムキになって使用していることから考えると、やはりこれらの言葉は差別語であるのだなあ、ということが逆に浮かび上がってくる

シアの外相を「毛唐」と呼んだ(1993年7月)ときの言い訳が笑える
「新聞で怒られたが、いい言葉ですよ。日本人と髪の毛の色が違う外国人という意味なんだから」

流とは言え仮にも作家のはずの彼の言葉はいかにも軽い。

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